夜のシリーズ

  • 2025.09.07

最終話:秋の夜長、虫の声と月 、満月のベランダで盃を交わす夜

空気がすっと澄んで、夕闇が深まると、月は静かに顔を上げる。満月の光は強いのに押しつけがましくなく、庭や街並みを銀色に柔らかく包み込んでいく。夕焼けの最後の橙色がやがて紫に溶け、夜の深さが増すにつれて、月光はますます存在を際立たせる。 ベランダに出ると、まず肌に触れるのは昼の残り香ではなく、夜の冷たさ […]

  • 2025.09.06

第四話:虫の声と記憶 、グラスを転がしながら帰る時間

夜が静かに深まると、虫たちの合唱はますます明瞭になります。 窓を少しだけ開けてベランダの椅子に腰を落ち着けると、最初に耳に入るのはコオロギの低い持続音、そこにスズムシの清らかな倍音が織り込まれて、まるで古いレコード盤のように時間が回り出す感覚がします。虫の声は単なる環境音ではなく、季節の棚卸しのよう […]

  • 2025.09.05

第三話:晩夏のベランダ、氷の音 、虫の声とグラスの短い会話

夕暮れから夜へと移りゆく時間帯は、夏が名残を惜しむような空気に満ちています。昼間に溜まった熱は建物やアスファルトに蓄えられ、夕方になっても完全には抜けきらない。けれど風の中には確かに涼しさの片鱗が混ざり、頬をかすめる風は昼間とは違う表情を見せます。 ベランダの戸をそっと開ければ、その境界に立った自分 […]

  • 2025.09.04

第二話:秋の気配と虫の合唱 、ぬる燗を抱えてベランダにて

夕方になると、ふいに空気が軽くなるのを感じます。 日中の余熱がまだ手のひらに残るけれど、風はもう、どこか涼しげに肩を撫でてくる。そんな境い目の時間帯が、秋の入り口を教えてくれます。夏の強さが少しずつ剥がれて、夜の輪郭が柔らかく立ち上がってくる。あの切り替わりの瞬間が、私は好きです。 ベランダの戸を開 […]

  • 2025.09.03

第一話:夏のはじまり、虫の声、ベランダにて

夕方の熱気がようやく抜けはじめる頃、部屋の灯りを落としてベランダの戸を少しだけ開けました。外の空気はまだ温度を保ちながらも、昼の鋭さを失い、肌に触れるところでやわらかくほどけていきます。 はじめに聞こえてくるのは、蝉の声の残響。遠くの電柱のあたりで、まだ数匹が名残惜しげに鳴いています。それが次第に薄 […]

  • 2025.08.03

第四話:夜の終わりと風の静けさ

風というものは、時に語りかけ、時に見守り、そして時に、すべてを飲み込んで去っていきます。 夜が終わりに近づくころ、私はいつも以上に風の存在を意識します。日付が変わり、世間が寝静まり、部屋の灯りを落として一人でグラスを手に取る。静寂のなかで、自分の呼吸と風の音だけが混じり合うその瞬間。そこには特別な静 […]

  • 2025.08.02

第三話:夜風と感覚の話

夜も深くなってまいりました。 街のざわめきも途絶え、道路を走る車の音も、まばらに遠ざかるばかり。そんな時間帯になると、不思議と人の感覚というものは、日中とは異なる形で研ぎ澄まされてまいります。 静まりかえった部屋の中、ほんの少しだけ開けた窓から、風がふわりと流れ込んでまいりました。エアコンでは到底代 […]

  • 2025.08.01

第二話:夜風と空気 静かな熱を灯して

夜の深まりとともに、ふと窓を開けてみたくなることがあります。 部屋の中にこもった昼の熱を逃がすように、また、気持ちの整理がつかないときなど、何かを静かに流し去ってくれるのではないかというような、そんな気持ちがどこかにあるのかもしれません。 今夜もまた、静かな風が部屋を通り抜けてゆきました。薄手のカー […]

  • 2025.07.31

第一話:夜風のはじまり 窓辺にトマーティンを置いて

夜の風ほど、心をやわらかくほどいてくれるものは、そう多くはありません。それが穏やかな初夏の風であれば、なおのこと。 この文章を書いているのは、夜12時を少し過ぎた頃。窓をうっすらと開けておくと、外からふわりとした風が部屋の奥まで入り込んできます。 暑さに湿気が混じる日中とは違い、夜の風は少しだけ冷え […]

  • 2025.07.08

深夜のカクテルグラス⑥

第六話:緑の香りと沈黙 ― シャルトリューズ・トニック 午前0時を少し過ぎた頃。私は窓を開けきらず、閉めきらず、ほんの数センチだけ隙間を残すようにして、その前に椅子を置きました。 冷たい風が入るわけでもなく、虫の音が届くわけでもない。 けれど、この小さな空間に流れ込んでくる「夜気」は、いつもどこか、 […]

  • 2025.07.07

深夜のカクテルグラス⑤

第五話:手抜きと、こだわりのあいだ ― 泡盛の水割り 時計は、午前一時を回っておりました。食器はすでに片付き、リビングも寝室も、静かに灯りを落としています。 この時間になると、もう何かを始める気力も湧きません。 それでも、今日という日を「終えた」と感じるために、私は台所に立ち、冷凍庫から氷を取り出し […]

  • 2025.07.06

深夜のカクテルグラス④

第四話:深夜一時のマティーニ ― 静けさに立ちのぼる記憶 夜のキッチン。1時を過ぎても、まだどこかに「今日」が残っているような空気が漂っていました。窓の外からは虫の声も風の音もなく、ただ冷蔵庫のモーター音が遠くで規則正しく続いています。 静かすぎる夜には、音のない会話がよく似合います。 そして、そん […]

  • 2025.07.05

深夜のカクテルグラス③

第三話:ラムと夜風 ― 静けさのなかに漂う記憶 日付が変わり、家の中がようやく静まり返ったころ。娘がすやすやと眠る寝室からそっと抜け出し、リビングの窓を開けてみました。 冷たい夜風が、カーテンをかすかに揺らします。湿気を含んだ空気とともに、遠くの車の音が微かに届き、静かな夜の存在感をいっそう濃くして […]

  • 2025.07.04

深夜のカクテルグラス②

第二話:ひとつの音を待つ夜 ― ウイスキーソーダの静けさ 夜が深まり、外の通りもほとんど人の気配を失ったころ。食器の音が鳴りやみ、娘の寝息が安定してくると、私は冷凍庫を開けて、氷の袋に手を伸ばしました。 小さな生活音が、いつもより響いて聞こえる夜。その音に気を遣いながらも、私は確かに「自分の時間」に […]

  • 2025.07.03

深夜のカクテルグラス①

第一話:なにも足さない夜 ― ジントニックという選択 日付が変わってしばらく経ったころ、家の中がようやく静まり返ります。 娘の寝息が聞こえる寝室の隣で、私はそっとキッチンへ向かいました。照明は最小限に。明るすぎると、この時間には似合わない。 冷凍庫からグラスと氷を取り出し、ゆっくりと深呼吸をひとつ。 […]

  • 2025.06.14

夜の思索 第4回

「琥珀の時、静かに流れ」 ―― 夜の本厚木にて ―― 火曜日の夕方、塾の仕事を早めに切り上げ、ひとり、小田急線に揺られて本厚木へと向かいました。 目的地は、駅の北口から厚木中央公園に向かっていく途中にあるとあるバー。私にとって、本厚木でもっとも「バーらしいバー」、つまり、王道の一軒だと思っている場所 […]

  • 2025.06.14

夜の思索 第3回

「グラスの向こうに揺れる灯」 ―― 夕暮れのワインバーにて、家族と ―― 日が長くなってきた初夏のある日。まだ空がうっすらと明るさを残している夕刻、家族三人で駅からほど近いワインバーを訪れました。 住宅街に静かに佇むその店は、控えめな外観ながら、灯りがともると、ふと立ち寄りたくな […]

  • 2025.06.14

夜の思索 第2回

「静けさの温度」 ―― 火曜日、家族とともに。ある銭湯にて ―― 火曜日は塾の定休日。仕事の手を休め、家族と過ごす時間を大切にする日です。 この日は、妻と一歳の娘を連れて、近くの銭湯へ足を運びました。 開業から十五年ほど経つこの温浴施設は、派手さこそないものの、どこか肩の力を抜かせてくれるような安心 […]

  • 2025.06.14

夜の思索 第1回

「グラスの向こう側にて」 ―― とあるバーにて ―― 夜風がほんの少し肌寒く感じられる季節になってまいりました。仕事を終えた帰り道、まっすぐ帰宅するにはまだ惜しいような、そんな夜もございます。 向かったのは、駅の近くにある、古びた建物の二階にひっそりと佇むバー。控えめな看板がひとつ掛けられているだけ […]

  • 2025.06.14

夜の思索 ― シリーズ紹介 ―

一日の仕事を終えて、塾の照明を落とし、鍵を閉める。 生徒たちの声が消え、通りには夜の空気が満ち始める頃、ようやく私は、講師ではない一個人に戻る。 塾講師としての顔。経営者としての顔。父親としての顔。 それらの役割が、少しずつ夜に溶けていく。そのときにはじめて、心の中に残っていた“言葉にならなかったも […]