あの頃のプール、そして今
プールというものに、私はどこか“時間のにおい”を感じます。
塩素の匂い、少しざらついたコンクリートの床、滑り止めのマット。水面のきらめきと反射音、そして子どものころの遠い記憶。
小学校の授業、夏休みの市民プール、家族で出かけたレジャー施設。
プールはいつも、どこか特別な場所でした。
水の中の安心感
思い返せば、泳ぐことそのものよりも、「水の中にいる」という状態が好きだったように思います。
水に浮かびながら、音が消えて、自分の呼吸だけが耳の奥で響く。誰にも邪魔されない、小さな宇宙のような静けさ。
当時は、それが“整い”などという言葉で表現されるようなものとは思いもしませんでした。
けれど、今になって思うのです。あれこそが、最初に出会った「整える時間」だったのではないかと。
“無邪気な身体”から“意識する身体”へ
年齢を重ね、大人になった今。プールに入ることは、当時のように無邪気ではありません。
ストレッチをして、呼吸を整えて、関節の可動域を確認してから水に入る。自分の体調や可動域、呼吸の深さに注意を払いながら泳ぐというのは、どこか“セルフメンテナンス”のようでもあります。
けれど、それは決してつまらないことではありません。むしろ、「意識して泳ぐ」という行為そのものが、あの頃よりももっと深く、自分と向き合う時間になっているように感じます。
水の中に帰るということ
子どもだったあの頃、私たちは「楽しいから泳いでいた」。
今の私は「整えたいから泳いでいる」。
そしてどちらにも、水の中にいる心地よさが変わらずある。
浮かぶ、沈む、漂う。どんなに生活が忙しくても、どんなに身体が固くなっても、プールに入れば、あの頃の感覚がふっと戻ってくるような気がします。
つまり私にとってプールは、「過去の自分」と「今の自分」が静かに交差する場所でもあるのです。
おわりに──「通う」という決意
久しぶりにプールへと向かったあの日、ロッカーの鍵を閉め、シャワーを浴び、水の中に身体を滑り込ませた瞬間、あの懐かしい静けさが全身に戻ってきました。
そうか、自分はやっぱり、水の中が好きだったんだ。心も身体も、大人になって疲れていたんだ。そう思いながら、ただゆっくり泳ぎました。
そして今、定期的にではありますが、プールへとまた行くようになりました。
あの頃の無邪気な自分を思い出しながら、今の自分を整えるために、水の中へ戻っていく。そんな時間を持てていることが、どこか誇らしく、どこかうれしく感じられるのです。