第四話:深夜一時のマティーニ ― 静けさに立ちのぼる記憶
夜のキッチン。1時を過ぎても、まだどこかに「今日」が残っているような空気が漂っていました。窓の外からは虫の声も風の音もなく、ただ冷蔵庫のモーター音が遠くで規則正しく続いています。
静かすぎる夜には、音のない会話がよく似合います。
そして、そんな夜にふと作ろうとしたのが―マティーニでした。
手元にあったのは、ありふれたジンとベルモット
冷凍庫の奥にしまっておいたビーフィータードライジン。ふだんはジントニックに使っているものです。
ベルモットは、以前買っておいたチンザノ・エクストラドライ。そろそろ風味も落ちてくる頃ですが、それもまた今夜にはちょうどよく思えました。
ジンとベルモットを混ぜるだけ。それだけのはずなのに、マティーニには不思議な重みがあります。
それはきっと、「何を足すか」ではなく、「何を足さないか」によって、グラスの中身が決まるからなのだと思います。
混ぜる所作と、思い出す時間
ミキシンググラスにロックアイスを入れ、ドライジンを60ml、ベルモットをほんのひとたらし。ステアをすると、氷の音が静かに立ち上がり、一滴ずつ、時間が溶けていくような気がいたしました。
オリーブもレモンピールも加えず、グラスの縁を指でぬぐい、ただそっと注ぐ。
仕上げられたマティーニは、無口なまま、ただそこに在りました。
生徒の成長と、塾という空間
塾の仕事をしていると、生徒の言葉の端に見える「変化」にふと気づくことがあります。
「自信がない」と言っていた子が、いつのまにか質問の声を大きくしていたり、文法の苦手だった子が、自分から解説をし始めたり。
劇的な変化ではなくても、日々の積み重ねのなかに確かに「成長の温度」があるのです。
それを見つけられた日というのは、マティーニのような一杯がよく合います。表面的な派手さはないけれど、
口に含んだ瞬間、冷たさの中に深い余韻が残る―それは、静かで確かな手応えに似ているのかもしれません。
淡く光る、ひとりの時間
一日の終わりに、ただひとりでグラスを持ち、なにも考えず、なにも言わず、ただ味わう。
自分のしてきた仕事が、誰かの未来に届くのか。そんな問いに答えを出すのではなく、今夜の一杯に沈めてみる。
それだけで、少しだけ心が整います。
今夜のレシピと、注意したいこと
使用材料
- ドライジン ビーフィーター 60ml
- ドライ・ベルモット 1ティースプーン
- ロックアイス
- ※オリーブやピールは省略
作り方
- ミキシンググラスに氷を入れる
- ジンとベルモットを注ぐ
- ステア(15〜20回ほど、ゆっくりと)
- 冷えたカクテルグラスに注ぐ
- 何も飾らず、そのまま静かに飲む
※「冷たく、静かに」がすべての要点。手早く、けれど丁寧に。
おわりに
深夜1時のマティーニは、あまりにも渋く、あまりにも静かで、まるで「今日という日」をそっと締めくくる句読点のような存在でした。
カクテルは、感情を言葉にせずとも、その一杯で充分に語ることができるのだと思います。
塾という空間で重ねてきた時間、生徒の目の奥に見える小さな成長、それらを、誰にも聞こえない深夜のキッチンで、ひとり、ジンと氷とともに思い返す。
また明日も、静かに誠実であれますように。
そう願いながら、私はグラスを洗い、ミキシングスプーンをそっと棚に戻しました。