「どこで、ととのうか」について考えてみる
サウナに通うことが習慣になると、自然と“自分に合った場所”を探すようになります。
今日は、そんな「施設との相性」や、“混んでいるサウナ”との付き合い方、そして“日常の延長としてのサウナ”と“非日常としてのサウナ”のちがいについて、少し書いてみようと思います。
サウナは「スペック」より「空気感」
サウナ好きの方の中には、「温度が何度」「水風呂が何℃」「オートロウリュがあるか」など、条件面をきっちりチェックされる方も多いと思います。
ですが私の場合、最終的な決め手になるのは、やはり“その場の空気感”なのです。
・浴室に流れるBGMの音量と選曲
・照明の明るさ
・椅子の数と、設置の向き
・そして何より、「客層」
たとえば、地元の年配の方がのんびりと過ごしているようなサウナでは、誰もが静かに、互いを気にせず過ごしています。そういう空気の中で汗をかいていると、「これは整うというより、しみじみする時間かもしれない」と感じることもあります。
混んでいる施設を選ぶこともある
もちろん、人気施設=混雑ということも多いのが、現代のサウナ事情。ととのい椅子がずらりと並んでいても、すべて埋まっているような光景に出くわすことも少なくありません。
そういう時、私は「今日は“人間観察”に切り替えるか」と思うこともあります。
整いのポーズやルーティンも十人十色。無音で瞑想する人、タオルをかぶって動かない人、軽くストレッチをしている人。誰もがそれぞれに、自分をリセットするやり方を持っていて、その多様性がまた、サウナという空間の懐の深さを感じさせてくれるのです。
日常のサウナ、非日常のサウナ
サウナには、大きく分けて2種類あると感じています。
ひとつは、「日常の中にあるサウナ」。もうひとつは、「旅の中で出会う非日常のサウナ」。
前者は、いつもの銭湯やフィットネス併設型の温浴施設。仕事帰りや休日の午後にふらっと訪れる場所。後者は、旅先の温泉地や海沿いのサウナ。宿泊込みで楽しむような、ちょっとした冒険に近い感覚。
私はどちらも好きですが、思考が詰まっているときや、言葉がうまく出てこないような時は、あえて“日常のサウナ”に行くようにしています。
それはきっと、「いつもの場所で、何も考えず、何かをほどいてくれる」安心感があるからかもしれません。
湯上がりのリズムが、生活を整える
サウナの効用は「汗をかく」ことだけではなく、“流れ”を作ってくれることにあると思っています。
湯船→サウナ→水風呂→外気浴→着替え→一杯の炭酸飲料、というあの一連のルーティンが、頭や身体だけでなく、その日一日全体を整えてくれるような気がするのです。
たとえば、サウナのあと塾に戻って授業をした日。言葉がなぜかスムーズに出てきて、生徒の顔をいつも以上にきちんと見られる気がします。
また、帰宅後の晩酌が一層うまく感じられたり、ブログの構成がパパッとまとまったり。どれも直接的な因果関係はないけれど、「サウナに行ったから、整ったんだろうな」と、どこかで納得しています。
おわりに:ととのうのは、思考か、感覚か
“ととのう”という言葉は、ずいぶん一般化しました。
でもその意味は人によって微妙に違っていて、「頭がからっぽになる」「深く眠れる」「ストレスが飛ぶ」など、様々です。私にとっての“ととのう”とは、「言葉にできなかったもやもやが、ゆっくりほどけていくこと」かもしれません。
英語を教える仕事は、常に「意味を探す」ことの連続です。だからこそ、何も考えず、何かを感じるだけの時間が、とても大切に思えるのです。
今日もまた、静かな湯気の中で、自分自身の“文章の骨組み”を組み直すような時間を持ちたいと思います。