第二話:秋の気配と虫の合唱 、ぬる燗を抱えてベランダにて

第二話:秋の気配と虫の合唱 、ぬる燗を抱えてベランダにて

夕方になると、ふいに空気が軽くなるのを感じます。

日中の余熱がまだ手のひらに残るけれど、風はもう、どこか涼しげに肩を撫でてくる。そんな境い目の時間帯が、秋の入り口を教えてくれます。夏の強さが少しずつ剥がれて、夜の輪郭が柔らかく立ち上がってくる。あの切り替わりの瞬間が、私は好きです。

ベランダの戸を開けると、まず最初に届いたのは湿り気を帯びた土の匂いでした。昼の乾きの中にじんわりと混ざる、穏やかな香り。目を上げると、空はまだ薄く明るく、遠くの家々の屋根が淡く輪郭を見せている。

そこに、虫の声が一列に並んで合唱を始めます。コオロギの低い持続音が土台になり、どこかの茂みでスズムシが高い倍音を重ね、さらに遠くでヒグラシのような余韻が風に溶けていく。音が層をつくり、時間に厚みを与えるように広がってゆきます。

静かな合唱を聞きながら、今夜はぬる燗にしようと決めました。

秋の夜には、冷たい飲み物ももちろん悪くはないけれど、少し温かさのある酒が、虫の声とよく馴染むのです。ぬる燗は、舌の上で米の旨味がふんわりと広がり、余韻をゆっくりと伸ばしてくれる。低温の温め方は、夜のテンポに合う。今の耳と心の速度に合わせるみたいに、酒の温度を選んでいきます。

準備はできるだけ静かに。キッチンの小鍋に水を張り、弱火にかけます。湯煎で燗をつけるときは、鍋の上に受け皿や片口を置き、少しずつ温度を上げます。ぬる燗の目安はおおよそ40度前後。温度計があれば確かに便利だが、なければ湯の温度を手の甲で確かめるのでもかまいません。触って「少し温かい」と感じる程度がぬる燗の温度です。酒徳利を湯に浸す時間が長すぎると熱くなりすぎますから、湯の温度管理と浸す時間に気をつけます。

酒は、旨味のしっかりした純米酒を選びました。冷で香りを楽しむタイプではなく、燗にしてこそ旨味が膨らむ種のものが、虫の声とよく馴染みます。ラベルを眺めるようにしてゆっくりと器に注ぎ、湯煎の中で酒徳利がふるふると震える音を聴きます。湯面の静かな波紋が、ベランダに流れる虫のリズムと合奏しているように感じられました。

燗が整ったら、灯りをほのかにしてベランダへ出ます。外の気温はもう、肌に当たると涼しいと感じるほど。徳利の口を指で温め、掌で包むとじんわりとした温かさが広がります。杯に注げば、白磁に映る酒の色は淡く、湯気がふわりと立ち上がってゆく。湯気の向こうで、虫の声は変わらずに歌い続けています。

一口含むと、ぬる燗特有のまろやかな旨味が舌の上に広がります。温度が低すぎず高すぎないぶん、香りがふくよかにまとい、米の甘みと酸味がバランスよく舌に残る。その余韻を追うようにコオロギの低音が響き、スズムシの清らかな音がそれを引き上げる。音と味が、お互いを引き立て合っているのがわかります。まるで夜のために用意された味覚のセットを、ひとつひとつ確認していくような心地です。

燗酒をゆっくり飲むさい、私が気にしているのは「間合い」です。虫の合唱には呼吸があり、その呼吸に合わせてゆっくりと杯を傾けると、飲むリズムそのものが音楽の一部になる。声の盛り上がりを待ってから、また一口。声が少し落ち着くときに、鼻から香りを深く吸い込む。そうして飲むたびに、酒はどんどん開いていきます。温かさが舌に残る感覚と、外気の冷たさが交互に訪れるのも、燗酒の面白さです。

また、ぬる燗にはペアリングも楽しい選択肢があると思います。小さなお皿に、ちょっとした肴を用意しておくと、夜の時間がさらに豊かになります。今夜は、軽く塩を振った焼き茄子、鮭のほぐし身を少量、そして塩昆布を添えました。燗酒のまろやかさと、茄子のほのかな甘みが寄り添い、鮭の旨味が酒の輪郭を際立たせる。肴を口にしては酒を含み、酒を飲んでは虫の声に耳を傾ける。その反復が、夜の深まりを実感させてくれます。

時間が進むにつれ、虫の合唱は少しずつ表情を変えます。盛り上がる部分が短くなり、間合いが長くなる。夜が深まるにつれて、音の密度が少しずつ下がっていくのです。私はその変化を、杯の中の温度変化と同じように感じます。最初は舌先に感じる鋭さがあり、次第に丸さを帯び、最後には余韻だけが残る。虫の声もまた同じように、次第に輪郭を曖昧にしていく。

最後の一杯を飲み干すと、ベランダに残るのは風と虫の声だけになります。掌に残る杯の温かさが、ゆっくりと冷めていくのを感じながら、今日という日の小さな節目を閉じるように深呼吸をします。虫たちは夜の中で働き続ける。彼らの歌があるからこそ、私たちはこうして静かに酒を傾けることができるのだと改めて思います。

今夜の一杯:ぬる燗のすすめ

  • 酒の種類:旨味のある純米酒(燗映えするもの)。
  • 目安温度:ぬる燗はおおよそ40〜45℃。人肌よりやや温かく、心地よく手に持てる温度。
  • 燗のつけ方:小鍋に湯を張り、徳利を湯煎。温度計があれば確実に測定。温度計がなければ湯の温度を目安に短時間で温める。
  • 肴の例:焼き茄子、鮭のほぐし身、塩昆布、ぬか漬けの浅漬けなど、やさしい塩味と旨味が合う。
  • 楽しみ方のコツ:虫の声と呼吸を合わせて、間を大切に飲む。香りは口に含む前に軽く鼻で確かめると、より深く味わえる。

夜の虫の合唱は、季節の移ろいを教えてくれる黙示録のようです。秋のはじまりに寄り添うぬる燗は、その声にとてもよく似合う。ベランダという小さな外界で、虫たちの歌を聴きながら杯を傾ける時間は、贅沢というよりも必要な休息のように思えます。

どうぞ、ゆっくりと、夜の音に耳を傾けながらお楽しみください。

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