「汗をかく」と「水に触れる」浄化という感覚

「汗をかく」と「水に触れる」浄化という感覚

発汗と水中感覚、それぞれの“浄化力”

私たちは、なぜ「汗をかく」とすっきりとし、「水に入る」と安心するのでしょうか。

プールで泳ぎ、サウナで汗を流すということを続けていると、そこには単なる運動やリラックスを超えた「何か」があるように感じられてきます。

それは、身体的な変化以上に、精神的な感覚の変化。まるで「浄化されている」ような感覚です。

この感覚は、どこから来るのでしょうか。

サウナで「出す」という行為

サウナに入ると、身体は徐々に熱に包まれ、やがて汗がじわじわと流れ出してきます。ただの体温調節ではない、老廃物が抜けていくような開放感。その瞬間、「何か」が外に出ていくように感じます。

これは、身体が内側から自然に排出を促しているという意味でも、心理的に「自分の中の淀み」を吐き出しているという意味でも、ひとつの”禅的行為”に近いものがあります。

禅の世界では、「ただ座る」ことが修行であり、心身の調和を生むとされます。

サウナにおいても、「ただ座り、汗をかく」ことが、結果として頭の中を空にする行為になっていく。

そのプロセスが、「整う」という体験と繋がっているのではないでしょうか。

プールで「触れる」という体験

一方、プールでは逆の作用が起きます。汗をかくという「出す」感覚ではなく、水に包まれ、戻っていく感覚

最初の一歩で身体に水が触れたとき、思わず息が詰まり、数秒後にはすっと肩の力が抜ける。全身が水に沈んでいく感覚は、まさに「戻る」あるいは「還る」感覚に近いものがあります。

ここで思い起こされるのが、日本における“禊(みそぎ)”の文化です。

神道においては、川や海などの水に身を浸し、穢れを祓うという風習が古くから存在しています。これは単なる身体の清潔さの問題ではなく、心身のリセット、つまり「浄化」を目的とした行為です。

泳ぎながら、水に身体を預けるという行為にも、知らず知らずのうちに、そうした原初的な祓いの意味が込められているのかもしれません。

「出す」と「戻る」のバランス

こうして考えてみると、サウナとプールは、それぞれまったく異なるアプローチから、心身を浄化するための“装置”として機能しているのではないか、と感じます。

サウナは、身体の内側から悪いものを出し切るための時間。

プールは、水という媒体に触れることで、自分を“無垢”に戻していく時間。

この2つを日常の中に取り入れることで、私たちは知らず知らずのうちに、現代のストレスや情報過多にさらされた自分自身をリセットし、また新たな一日へ向かっていく準備を整えているのかもしれません。

今日も、整えて、戻る。

泳いで、浮かんで、そしてまた地に足をつける。熱に包まれ、汗を流して、静けさに身を置く。

ただの運動、ただの娯楽としてのサウナやプールではなく、それらが私たちの日常にそっと寄り添う、“静かな儀式”のようなものとして機能してくれるなら。

今夜もまた、あのサウナ室とプールサイドに、小さな再生の時間をもらいに行くのかもしれません。

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