第一話:夏のはじまり、虫の声、ベランダにて

夕方の熱気がようやく抜けはじめる頃、部屋の灯りを落としてベランダの戸を少しだけ開けました。外の空気はまだ温度を保ちながらも、昼の鋭さを失い、肌に触れるところでやわらかくほどけていきます。

はじめに聞こえてくるのは、蝉の声の残響。遠くの電柱のあたりで、まだ数匹が名残惜しげに鳴いています。それが次第に薄まっていくと、ベランダの手すりの下から、コオロギの低いリズムが立ち上がりました。「りー、りー」と長く引く声を、どこかの茂みからスズムシが「りん、りん」と受け渡す。音は風に運ばれて層になり、耳の前で静かな合唱に変わります。

椅子を少し引き、足元のタイルに素足を置いて温度を確かめます。昼間に吸い込んだ熱がまだ残っていて、土の匂いがわずかに上がってきます。この匂いと虫の声が重なると、夏の夜は一気に輪郭を持ちます。

街の遠い車の走行音、隣家の扇風機の回る気配、そして我が家の台所で冷蔵庫がふっと息を吐く音。それらすべてが背景に退き、虫の声が主旋律になります。

今夜の相手はビールにしました。

ベランダで最初の一杯に何を選ぶかは、その日の温度とうるおいで決まります。湿度が高く、空気が丸い夜は、苦味がきれいに抜けるピルスナーが合う。

冷蔵庫から瓶を出し、グラスはあらかじめ冷水でさっとすすいでおきます。霜がつくほど凍らせるのは避けます。泡の持ちが悪くなり、香りも閉じてしまうからです。ボトルの口をグラスの縁に近づけ、最初の三割は思い切ってあおぎ気味に注いで、きめの細かい泡の土台をつくる。泡が落ち着いたら、残りをグラスの内壁を滑らせるようにゆっくりと。液体の黄金色が、ベランダの常夜灯に照らされて、琥珀の層に見えます。

最初の一口は、息を吸わずに。

冷たさが舌の上をすべり、のどの奥に届く瞬間、炭酸の細かな粒がほどけ、麦の甘さとホップの青い香りが広がります。そこでようやく息を吐くと、コオロギの音階が戻ってきて、泡のはぜる微かな音と重なりました。音のうち、いちばん近いのはグラスの中、次がベランダの植木鉢の影、そして遠景にスズムシ。距離感が耳の中で立体になり、夜がふくらみます。

ベランダの隅で、風がときどき方向を変えました。

南から来る風は少し湿っていて、葉の表面を後ろ向きに撫でます。北へ抜けるときは乾き気味で、グラスの表面の水滴をすっと削いでいきます。

そのたびに泡の輪が一枚ずつ剥がれ、ガラスに残る白い縁が増えていく。飲み進めるほどに、グラスの内側に重なる輪は、今夜の時間の目盛りになります。

虫の声を聞き分けるのは、味を聞き分けることとどこか似ています。

コオロギの低い持続音は、麦芽の甘さに近い。スズムシの涼しい倍音は、冷えた炭酸のきらめき。ときどき混ざる名の知らない虫の短い断音は、ホップの鋭い苦味に似ていて、一口ごとに、夜の編成が少しずつ変わります。

二口目は、ほんの少しだけ鼻で香りを拾いながら。

温度が一度上がるだけで、ビールの輪郭は丸くなり、麦の甘みが前に出ます。いいタイミングでグラスの位置を手すりの影へ移します。直に光を当てないほうが、泡の持ちも香りの抜けもゆっくりになるからです。こういう小さな手間を惜しまないと、ベランダの一杯は驚くほど表情を変えてくれます。

しばらく耳を澄ませていると、虫の合唱の中に周期があることに気づきました。一定の間隔で、全体がふっと弱まり、すぐに盛り返す。その「呼吸」の谷に合わせてグラスを傾けると、のどを通る音までも夜に溶け込んでいくようです。

氷を使わないぶん、温度の下がり方と音の密度が、ゆっくりと同じ速度で変化していきます。ベランダで飲む理由は、案外この「速度」を合わせられることにあるのかもしれません。

最後の三口は、少し間を置いてから。

泡の輪が一段と低くなり、麦芽の丸みがはっきりと出ます。虫の声は相変わらずですが、耳が慣れて、遠くの一本の声を追えるようになってきました。どこかの生け垣の中、一定のリズムで鳴いている小さな命。その声に背中を押されるように、ゆっくりと飲み終えます。

空を見上げると、ベランダの庇の向こう、夏の星がいくつか顔を出していました。風は少しだけ涼しくなり、植木鉢の土の匂いが深くなります。虫の声は、夜の深さに合わせて、音量を落とさずに色だけを変えていく。

グラスの底に残るわずかな泡が消えたとき、今夜の第一幕が静かに閉じました。

今夜の一杯:ピルスナー(瓶)

  • 下準備:薄手のタンブラーを冷水でリンス。凍らせない。
  • 注ぎ方:最初は泡を立てて土台づくり → 落ち着いたら壁面沿いに。
  • 置き場所:直射と熱源を避け、手すりの影へ。
  • 飲み方:虫の合唱の「谷」に合わせて一口。温度変化と香りの開きを楽しむ。

次回は、晩夏の夜に虫の声を合わせる日本酒編を考えています。

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