第一話:なにも足さない夜 ― ジントニックという選択
日付が変わってしばらく経ったころ、家の中がようやく静まり返ります。
娘の寝息が聞こえる寝室の隣で、私はそっとキッチンへ向かいました。照明は最小限に。明るすぎると、この時間には似合わない。
冷凍庫からグラスと氷を取り出し、ゆっくりと深呼吸をひとつ。こうして、私の深夜のひとときが始まります。
家族が眠るあとの台所でカクテルをつくる。
それは華やかな時間ではありませんが、一日の終わりに、気持ちを整えるための小さな習慣でございます。
どこでも手に入るからこそ、選ぶ理由
今夜つくるのはジントニック。
使用するジンは、ボンベイ・サファイア。青いガラス瓶が、夜の台所でほのかに光を反射します。どこでも手に入るジンです。特別な一本ではありませんが、どこにでもあるということは、どこにいても頼れるということ。いつもの棚にいつもの酒―それが夜の安心感につながっているように思います。
トニックウォーターはウィルキンソン。コンビニでも手に入り、炭酸が強く、後味もすっきりとしています。派手さはありませんが、まっすぐな仕事をしてくれる一本です。
グラスは、あらかじめ冷凍庫で冷やしておきました。氷は透明度の高い市販のロックアイス。溶けにくく、音がきれいです。
氷を落としたときの小さな音が、この夜にふさわしい合図のように響きました。
なにも足さない、という選択
ジントニックといえば、柑橘を添えるのが一般的です。ライムやレモンの果汁を少し加えると、香りに表情が出ます。私もふだんはそうしております。
けれど今夜は、あえて何も加えませんでした。レモンもライムも手元にないというのも理由ではありますが、なにも足さないことが、今夜の気分にしっくりときたのです。
一杯の飲み物に、なにかを足すことよりも、余白を残して味わいたい夜が、たしかにあると思うのです。
生徒の努力と、氷の音
今日、ひとりの高校生が英検準1級の一次試験に合格いたしました。控えめに報告してくれたあの笑顔は、短くも、とても印象に残っています。
大きな声で喜ぶこともなく、ただ、目の奥でじんわりと嬉しさが灯っていた。
その姿に触れて、私は「なにも足さないジントニック」を選んだのです。言葉を飾らず、評価を急がず、ただひとつの積み重ねが、今夜の味をつくっている。そんな気がいたします。
一杯の中にある静けさ
グラスを傾けると、ジンの鋭さとトニックの苦味が、今日の疲れをゆっくりと解いてくれました。炭酸の泡が静かにはじける音も、深夜には心地よく感じられます。
カクテルというものは、誰かのために作るものでもありますが、こうして自分だけのためにつくる一杯は、まるで「自分への返事」のようにも思えてきます。
今夜のレシピと、作り方の工夫
使用材料
- ボンベイ・サファイア(ジン) 40ml
- ウィルキンソン・トニックウォーター 90ml前後
- ロックアイス
- ※柑橘は加えず、そのまま
作り方の流れ
- グラスは事前に冷凍庫で冷やしておきます
- ロックアイスを静かにグラスへ落とします
- ジンを注ぎます。目分量でも構いませんが、心は丁寧に
- トニックをグラスの内側を沿わせるように注ぎます。泡が暴れないように
- マドラーで一度だけ混ぜます。音を立てず、そっと
※味を変えたい気持ちがあっても、「変えないこと」を意識してみるのも、ひとつの楽しみかもしれません。
おわりに
なにも足さないジントニック。そこには、足りないからこその静けさと、余白の美しさがありました。
娘の寝顔と、生徒の努力と、一日の終わりに注いだ氷の音。それだけで、今夜は十分でございました。
また明日も、丁寧に過ごせるように。そう願いながら、グラスを洗い、深夜のカクテルグラスに、そっと蓋をいたしました。