「グラスの向こう側にて」
―― とあるバーにて ――
夜風がほんの少し肌寒く感じられる季節になってまいりました。仕事を終えた帰り道、まっすぐ帰宅するにはまだ惜しいような、そんな夜もございます。
向かったのは、駅の近くにある、古びた建物の二階にひっそりと佇むバー。控えめな看板がひとつ掛けられているだけの、静かな場所です。外観の年季に気後れする方もいらっしゃるかもしれませんが、一歩足を踏み入れると、その印象はすぐに変わります。
写真①:古い階段とさりげないバーの看板
ドアを開けると、「いらっしゃい」とマスターの穏やかな声。カウンター越しのその声には、迎えるというより、そっと受け止めるような優しさが感じられます。
カウンター席は磨かれ、棚には洋酒と並んで日本酒の一升瓶も整然と並んでいます。清掃が行き届いた店内には、マスターの几帳面さとこの店への愛情が、静かに、しかし確かに表れておりました。
写真②:磨かれたカウンターと酒瓶の棚
最初の一杯は、ジントニックをお願いしました。ドライなジン、ビーフィーターに少し強めのトニック、ウィルキンソン。ライムの皮がふわりと香り、氷の音がグラスの中で軽やかに響きます。
ほんの一口で、今日のざらついた感情のいくつかが、音もなく溶けていくような感覚を覚えました。
グラスを傾けながら、ぼんやりとカウンターの木目を眺めます。言葉を交わさずとも、隣の常連客と心地よい距離感。こうした場所では、静けさもまた会話のひとつなのだと、最近ようやくわかるようになってきました。
一杯目を飲み終えたころ、もう少しだけこの夜を味わいたくなり、マティーニを頼むことにいたしました。
写真③:マティーニグラスと、沈むオリーブ
ステアされたマティーニは、まるで湖面のように静かで、冷たく、凛としておりました。一口含むと、ジンの輪郭がよりくっきりと際立ち、喉を過ぎるころには、どこか遠くの記憶を呼び起こすような、そんな味わいがございました。
ジントニックの開放感とはまた異なる、マティーニの静謐な余韻の中で、今日の出来事、塾の生徒たちとの会話、自宅での娘の笑い声、そして妻の撮った写真のことなどを、ゆっくりと反芻いたしました。
写真④:静かに照らされるカウンター、マスターの横顔
気がつけばグラスの底が見え、手元の水滴が、夜の深まりを知らせてくれます。帰るべき時間が来たのだと、マスターに軽く会釈をして席を立ちました。
外に出ると、街灯の下に小さな影。自分の足音だけが、夜の階段に響いておりました。
写真⑤:夜道に浮かぶビルの外観と、静かな街の灯り
ジントニックとマティーニ。まるで今日と明日をつなぐような、そんなふたつの味わいを経て、また明日もやってくる日常の中へと、静かに歩き出す自分がありました。