〜新しい契約書と、変わらない教室の空気〜
ある平日の午後、いつものように郵便受けを開けると、見慣れた送り主の名が記された白い封筒が目に留まりました。
差出人は、学習塾のテナントをお借りしている大家さん。中身は…予想していたとおり、新しい賃貸契約書でした。
私は今、法人の代表として、新たな一歩を踏み出したばかり。しかし、この場所での時間は、ずっと以前から続いています。小さな町の一角にある、ささやかな空間。生徒みなさんが扉を開けて入ってくるたびに、静かな教室がふわっと生き物のように息づく。そんな場所です。
これまでは「私」という個人として、この空間と向き合ってきました。月のはじめには家賃を払い、掃除をし、季節の移ろいに合わせて教室の空気を整える。静かに、でも確かに積み上げてきた日々でした。
だからこそ、「自分が立ち上げた法人としてこの場所を借りる」という新しい契約書に目を通したとき、ほんの少しだけ、胸の奥に温かいような、寂しいような、言葉にしづらい感情が広がりました。
内容はこれまでとほとんど変わりません。家賃の金額も、契約条件も同じ。けれど、そこに記された契約者名のところに「株式会社・代表取締役」という文字が追加されている。
肩書きが加わっただけのようにも見えるその文字列に、どこか妙な距離感を覚えました。まるで、自分の作った会社という別の存在が、改めてこの空間と向き合おうとしているような…そんな不思議な感覚です。
契約書を読み終え、署名欄に筆を入れるとき、思わず姿勢が正されました。そして押印を終えたあと、ふと顔を上げると、目の前には、いつもと変わらない塾の風景がありました。
机と椅子、黒板、テキストと文房具、そして窓から差し込む淡い光。この部屋は、法人になっても何も変わらず、ここにいてくれる。そんなふうに思ったら、少しだけ肩の力が抜けた気がしました。
私にとっての法人化とは、大きな夢や野心というよりも、いまここにある日常を、もっと丁寧に、もっと継続していくための「器」をつくることだったのだと、そんなふうに改めて思います。
新しい契約書は、その器にきちんと水が注がれるような瞬間でした。見えないけれど確かな重みを帯びた書類を封筒に戻し、後日大家さんのもとへ届けようと思います。